正福寺

曹洞宗について

釈尊が説かれ
道元禅師が究め
瑩山禅師が広げた禅の真髄。

両大本山

曹洞宗の大本山は
大本山永平寺(福井県)と大本山總持寺(神奈川県)の2つ。
これを両大本山と呼んでいます。
両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰の源です。

大本山永平寺

大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、
京都以来の大檀那であった波多野義重公の願いによって、
越前国志比庄(福井県)に大仏寺を建立し、
2年後に永平寺と改められたことに始まります。
深山幽谷の地にたたずむ山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司の
七堂伽藍では、雲水が道元禅師により定められた
厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。
現在のような優れた伽藍を具えるまでには、
決して平坦な路ばかりではありませんでした。
繰り返し火災に見舞われるなどしていますが、
その度毎に時の貫首と篤信の檀家とが力を合わせて復興してきたのです。
江戸時代の俳人松尾芭蕉は、『おくのほそ道』旅程の最中に永平寺を礼拝し、
「道元禅師の御寺也」とし、
このような深山の地に建てられたことを「貴きゆへ【所在地】 〒910-1228 福井県吉田郡永平寺町志比 TEL:0776-63-3102

大本山總持寺

大本山總持寺は1321年、瑩山禅師が58歳のとき、
能登国(石川県)の諸嶽寺を定賢律師より譲られ、
これを禅宗寺院に改めて諸嶽山總持寺と名づけたことに始まります。
瑩山禅師は1324年に弟子の峨山韶碩禅師に寺を譲られましたが、
峨山禅師はその後、91歳で亡くなるまで常に一線にあって多くの弟子を育て、
その弟子達は「峨山二十五哲」とまで称されます。
そして、曹洞宗の宗風を身に着けると日本全国に旅立ち、
各地で大きく教線を広げました。
主要の弟子5人は、總持寺山内に「五院」と呼ばれる5つの塔頭寺院を作り、
そこから總持寺の住職を交代で行う「輪住制」を敷きました。
これにより、全国各地と總持寺とが結ばれ、大きく展開する原動力にもなったのです。
なお、明治時代に入ると、1898年に七堂伽藍を焼失しました。
そして、1907年に能登から現在の横浜市鶴見へ移りました。
旧地は總持寺祖院として再建され、地域の信仰を集め今日にいたっています。
【所在地】 〒230-0063 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1 TEL:045-581-6021

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